新年明けましておめでとうございます。

2019年01月16日 20:14

皆様、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

早いもので、もう新年が明けてしまいました。

以前ブログを書いたのが九月ですから、結局かなりの時間が空いてしまう運びとなってしまいました。申し訳ありません、、、。

昨年は災害の多い一年間でしたね。以前ブログを書いてから間も無く、近畿地方に集中豪雨の被害がありました。当寺も、その例に漏れることなく、瓦が飛んだり雨漏りがしたり、停電に見舞われたりと大変でございました。

いえ、ございましたと申しましたが、まだ瓦に関しては修理が必要な状態です。

 

その後は住職の入院やら、お四国へ歩き遍路にいかせて頂いたり、大掃除をしたりで慌しく時間が過ぎ去ってしまい、気づけばもう、年明け一月半ばというところまできてしまいました。

こんな私ですが、本年もよろしくお願い致します。

 

 

 

さて、以前のブログで「本来の仏教と現代の仏教とでは大きな違いがある。では本来の仏教の姿を失った現代の仏教は意味がないのではないか?」

という私にとっては「フェルマーの最終定理」くらい難しい論題を出させて頂きました。若干、やり過ぎたと思っております。

しかし、せっかくの機会ですので、真言宗の末席を汚す浅はかな私の現時点での見解を申し上げたいと思います。

 

先に私の結論を申し上げますと、「現代の仏教にも意味がある」と考えております。

 

おそらくこの答えは賛否両論で分かれてしまうことでしょう。

原始仏教、釈尊の教えを至高とする方々は「本来の仏教こそが本物、今のは間違い」と力説されるでしょう。

また現代の仏教というものを至高とする方々は「今が最新なんだから、現代のは現代でいいじゃないの?」という立場を取られることと思います。

 

 

でも一般の人からしたら、どっちが正しいとか、間違っているとかどうでもいいことではないでしょうか?

あくまでも大衆にとって大事なことは「幸せに生きるにはどうしたらいいの?」という人生の永久命題に対する答えだと思うのです。

その答えを人は宗教に求めるのです。そしてその答えを出すのが宗教の責務だと思います。

 

 

 

 

 

お釈迦様はこの世の原理原則を理解論証され、それを人類史上初、人に説いたお方です。

そこから長い年月を経ていく中で仏教も変化して行き、最終的に日本に入ってきた時には本来の姿からは遠くかけ離れたものであったことは否めません。

では、その日本の仏教によって、人は必ずしも救われることはなかったのでしょうか?

そんなことはありません。全ての人が、とは言えなくとも一定数はこの「現代日本に伝わっている仏教、仏様によって救われた」という人々がいらっしゃるわけです。

すでにそういう気持ちになられた方がいらっしゃるわけですから、私は十二分に現代仏教にも、その存在意義はあるかと思います。

正しいとか、正しくないとか、そんな二元的な考え方では中々、身の回りの人や環境に感謝の気持ちを持つことは難しいのではないしょうか?

 

もちろん原理原則が正しいことに越したことはありません。しかしそれだけ一点張りして、論語がたりの論語知らず状態になっていては本末転倒だと思います。

お釈迦様が人々に対して法をお説きになられたのは自己満足のためではありません。悩み苦しみながら行きていく人々を救ってあげたい、1000人に1人でもいいからこの法灯受け継いで欲しいという気持ちがあったからではないでしょうか?(悟りを開いたら煩悩が無くなるのですが、これくらいの大慈悲ならあってもいいのではないかと個人的に解釈しております。)

 

 

幸せとはなんなのか?それは存外近いところにあるのではないのか?

現代の仏教によって、今自分が周りの人に支えられながら、また仏様に生かされていることに気づくきっかけになり、少しでも自分の心が温かくなり、人に優しい言葉をかけることができるようになったのならば、それで良いのではないでしょうか?

 

 

ある方は雪吹雪く中、寒行托鉢をなさっているお坊さんの姿に胸を打たれるかもしれません

ある方は祖母の祖父に対するお供養の背中に胸打たれるかもしれません。

いつどこでどう影響を受けるかどうかはわかりません。しかしその影響が少しでも良い作用を及ぼしうるなら、今ある仏教の意味がない、ということはできないと思います。

 

 

というのが現時点での私の見解でございます。

稚拙な文章で申し訳ありませんでしたが、ここまでお読みいただいたことを感謝申し上げます。

 

合掌